露苔庵

濡れてる訳ではない

活字を落としたバラバラの後で

物心ついた頃のことを思い出してみる。

と言っても、物心がついたのはつい2、3日前の事だから、あまりに卑近すぎてよくわからない。

ただ、自分が未だに、今自分が着ている服を着ているものが何なのかよく分からない、という事を考えているーーという事は、散歩する間によく分かった。


頭の悪い文章が好きなのは、趣味である。好きな事が趣味なのであり、嫌いになる事は義務である。そうする必要がないならば、自分はこの頭の輪るい文章を、書き続けたいと思う。勿論、必要がなくなる場合なんてのは、息をしている限り、寸秒もないのであるが。


産道を潜ったばかりの人間には、息をするのにも特殊な方法を余儀なくされる。そう考えると、「波紋使い」とかいうアイデアを最初に思い付いたような人間は、余っ程世渡りが下手だったに違いない。

言葉使いも、実際そんなもんである。常に、特殊な呼吸法を実践し続けるようなもんである。それは、出来る事ならずっと羊水に浸っていた方が良かったような人間の、愚痴というか自嘲である。そういう語り口で語る事しか、“この”呼吸法は許してくれないのだ。


ホムンクルスというのは結局、人間の事である。だから別に驚く事はない。ただ、無数にあるそうした人間のバラエティから、便宜上標準を定めるなら、それ以外のものは何か別の名前が必要になる。その名前を用いる為の呼吸法も自ずと選定される。それは補助言語のようなもので、言語は元来、口の、舌の数だけあるーー筈だ。

二枚舌外交ーーとかそういう次元ではない。


服を着ているものについて話を続けよう。

最近流行りなので『エヴァ』を例えに用いよう。とはいえ、自分は昔からあの物語にはちょっともシンパシーを覚えない。自分の読み方が正しければ、あれはあんまりに自明な事を延々と語り、それに終始していた。或いは自分が全く思いも寄らない事柄について言及していたのかもしれないが、それらを理解する為の「補助言語」が欠落している為、自分は最後までただ絵を、動きを楽しむ作品として鑑賞するより致し方なかった。

(そんな癖して、他のアカウントでは、何やら「表象」だとかいう言葉を使っているんだから、詮もない話だ)


服を着ているものが自分であるとすれば、それは随分と得体の知れないもので、本当のところ、自分はそんな得体の知れないものの表層にぺったり貼り付いた、或いはその中にちょこんと座った、巨大ロボットのパイロットーーこのシチュエーションを「デカルト劇場」とかいうらしいのも、何処だか2ちゃんの掲示板で何年も前に見て知った事だがーーではないか……。

そんな事は巨大ロボットアニメを見ているとかいないとか関係なしに、誰しも、服を着ているものなら一度は考えたであろう事柄だ。

で、最近流行りなので、7年くらい前に雑誌に掲載されていた監督の寄せたコメントというのが随分親切で、それがネットの片隅にも回って来たので読んだならば、思ったよりも自分の妄想とぴたりとハマったのでーーファンサービスだったとしたら、それは大変喜ばしい“投げキッス”だった。


曰く、あれは「ウルトラマンに装甲を施したもの」だという。だったらまあーー実に、実に分かりやすい物語だった。あれは、服を着る理由が訳が分からなくて困惑する赤ん坊の話だったのだ。

使徒」とかいう、得体の知れないものの正体は、「服を着ている何か」だったのだ。これは確かに、脅威である。そして、人類自身もそんな訳の分からないものだったーーというオチも、自分たちが普段それに“服を着せている”、と言うことを考えたら、何でも明らかである。


あの“銀色の巨人”も設定によれば、世を偲ぶ仮の姿、だそうだが、あれはキグルミなので本当のところは未だ、映像としても怖いものではない。

でも、本当に実際、あんなものが目の前に現れてしまったとしたらーーそれはもう恐怖である。“銀色の巨人”が恐ろしいのではない。杳として知れない、“その中に入っているもの”が恐ろしいのである。上手くして、その土手っ腹を抉じ開ける事が出来たとしても、それは何処までもその奥へ、奥へとどんどん引っ込んでいってしまう。

丁度、息の仕方を忘れた時に、何か吐き出そうとしても喉の奥へ、奥へとそれが落っこってしまうように。


自分が普段服を着せているものを、取り敢えず自分と呼ぶ事にして生きていかれるのは、その為の、息の仕方を教えてくれたものがいたからだが、本当のところ、その服の下にいるものの「息の仕方」を、自分とかは知るものではない。だから、自分はそれの「呼吸」を極力乱さないように、慎重に普段から気を遣って服を着ていたのであった。それが失敗すると、どうなるかといえば“風邪をひく”。簡単に言えば、息が出来なくなって、稍もすれば死にかける。だが、その危機を幾たび乗り越えて来れたのは、何もこの、得体の知れない何ものかが自分に憐憫を掛けてくれた為ーーとは全く思われない。

何だったら、全く自分と同じくらいかそれ以上に、こいつは何も分かっちゃいない。


ただ、その“何も分かっちゃお互いいない関係”というのが一番健康だというのは、世間でよく言わている事だ。

それについては、この際、ノーコメントで構わないだろう。


エヴァ』じゃなくて『ゴジラ』の方を見て、更に強く感じた事が、『エヴァ』でも既に言われていた事を知って、後者がやっぱり、“アリス”でいう所の、「ジャバウォッキー」だったのだと分かって少しスッキリして、ホッとした。自信を幾分取り戻したーー、これは、自分の中の秩序が回復された事に因む。

「虚無を纏った」のがゴジラだったのではない。あの中には、人間なんぞ入っちゃいないのだ。人間は、精々いるとしたら表層にケロイド状になってへばりついているだけで、もう如何にもそれでは覆い尽くせない、「ダラダラ」が“ただ動いているだけ”なのだ。


物心ついた時の混乱の中で、取り止めもなく思い付いた事で、今思い出せる事といえばこの程度の事だ。

私はそれでも、これが自分の安全弁である事を妙な話だが、よくよく理解して大切にしようと思った。

マウスピースとも違う。寧ろ、その口にしゃぶられるのがこの「私」である。

それが分かっただけでも、随分と気が楽になった。


(2021/04/12)