露苔庵

濡れてる訳ではない

迷信家の帽子

 眉毛の白く延びるまで、生きているつもりはない。が、それまでの身の危険は何とかして御免被りたいと願うものだ。 

 予防接種の順番待ちをする間、当日余った分をすぐに打って貰えるように、普段滅多に行かないかかりつけ医にも連絡して、有れば電話して貰えるように頼んでみた。それから後はもう、待つのみである。 

 待たされるのは診療室の常である。だが、院外で待つのはそうあることではない。病床逼迫の折りも折り、「座敷牢」という古い言葉が久々に脳裏を通り過ぎたりした。今夏、時折来る息苦しさは神経性のもので、どうやら熱中症の兆しであるようだった。 


 面倒な会堂や催事もなければ、全ての面会や用事もキャンセルに出来るだけの口実を得たり、とのうのう大の字になって部屋で寝転がっていると、階下の老人が喧しく言ってくるようになった。いい若い者がそんな体たらくでは不甲斐ないとかいう。日毎目に見えて老いの坂道を転げ落ちていく老人の僻みはいよいよ勢烈を示しつつある。

 此方が何か言うにしても都合良く遠くなる耳が片言節句を捉えることもなく、己の劣情も把握出来なくなった膚には玉の汗さえ浮かぶ事なく、剝片と白髪とかがバラバラとへばり付いて仕切りに床を汚している。

 そんな老人の車の中に、散歩帰り、スプレー缶を見つけた。扉を潜る前に急いで運転席のドアに手をかけたら、鍵さえかかっていなかった。殺虫剤の赤いスプレー缶は、今し方注いだばかりの湯呑みくらいに暑くなっていた。そのままでは家の中に入れるにも危なさすぎて、仕方なく納屋の、梯子とかかけてある壁際の物置の上に投げておいた。だがそこも、一応通りには面しており、家の前の道路では子供が日がな一日中、同士で水遊びをしたりして騒ぎまくっていた。 

 余りに不用心なので流石に何かきつく戒めねばならない様な気がしてみた。だが、手を洗っている間にそれも効果がないと気付いた。散歩の間に考えた事であるが、これは自家にも丸っ切り当て嵌まった。恰も、事前にスプレー缶の事を察していたような具合に、である。 


 世間に必要なのは学者や教師ではなく、悪魔祓いと祈祷師である。専ら世間が期待するのは、エクソシストとか、除霊の出来る僧侶や神主の出番であり、反省や批判を促す指導者のそれではない。

 消防署からの回覧板や、防災訓練での指導などは家の老人達も一通り受けているはずだ。そして彼らにしてもまだ、完全に耄碌する事までに至ってない。歳の所為、なぞではなく、単に疲労と軽視から招いた不用心であり、その結果としての危険である。

 学者や知識人は単に道理を説けばいい。だが、エクソシストは実話を示すものである。詰まり、この場合には車内で放置されたスプレー缶が破裂したりしたで齎された重大事故や事件の数々を、危険を招いた本人に教え諭す役を勤める誰かが、この場合いう聖職者である。それによって、聴衆を恐怖させ、改心させるのである。聴きたがらない者には、踏む縛ってでも聞かせる。その為の暴力の行使が許されているのが、学者と教師、牧師の大きな違いだ。飽くまでそれは、話を聞かせる為の下拵えとして振われる。


 ただ、その様な仕事は端から自分の様な俗人のする事ではない。大体、そんな仕事を進んでやろうという気持ちにもならない。怒りは瞬間、十秒と維持されないーーというのは本当である、とタオルで手を拭きながら、台所に向かうと、クーラーもかけないで開け放された窓から、生温い風が吹き込む奥の部屋で老人は午睡の真っ最中であった。わざわざ起こしてまで話を説いて聞かせるべき相手ではないのは一目見て明らかだった。

 況してや、相手は自分をゴロツキと判じて疎んでいるのだから、いつ如何なるタイミングでそれを話題に上げた所で、ゴロツキの舌先三寸に三分の理すらある事を認めやしないだろう。

 第一、自ら、何か話す相手の向こう側に、語る言葉のその奥に、第三者の存在を想定し得る者は、全く信心深いと言って差し支えないだろう。だが、そういった信仰とかは、諄々説かれて気付く事ではない。全く、それは一人でに催す事である。

 聖職者は、さりながら、自らの固い信仰に基づいて厚かましくも他人に第三者の存在を、種々の実話から信じ込ませる所から始めて、認めさせようとする者である。だが、生憎と私にはそんな他人にも紹介したい程、素晴らしいと思われる様な偉大な第三者の存在を想像した事もなければ、あれば良いと望んだ事もない。


 口喧しさは耳に蓋をすれば凌げるものである。だが、暑さ寒さは皮膚全体を覆い、身体全体を悩ます問題である。数年前までは、日がな一日中、図書館なり本屋なりを巡って部屋に居なくても涼を得る手立てがあったが、今そこに行けば有象無象の不用心な人間と多く出会す事になる。それが今、どれだけ危険かは幸いな事にまだ、目に見えては明らかではない。

 伝え聞く話と、そこに出て来る数字などで、目には見えない脅威の存在を認知出来る人間は、賢いか如何か知らないが、少なくとも幸いではあるだろう。それはある種、この時代に適当な信心を持った者達と言えそうなものだ。片や、そうではない人達を、だからと言って、空調を効かせた部屋で過ごせる人間がとやかく言得る立場にもないーーとは、飽くまで信仰のあり方にのみ目を向けてみた時の話である。が、事は最早そんな信じるか、信じないか、という次元をとっくに超えて、「猛暑」といういなみ難い事実として万人の上に立ち込めている。


 その厳然たる事実の見せる景色として、地平線の彼方に列を成して浮上せる入道雲の威容を、今日はよくよく観察出来るだろうと期待して外に出たはいいが、大体一時間も歩いてみると、もう何だか体の自由が効かなくなって来て危険である。先述の息苦しさの他にも、胃の奥から喉元に込み上げて来る酸っぱいものもあれば、度々気の遠くなる感覚や、妙な寒気や手足の震えも感じられる様になって来た。

 これを果たして、身近な人間を蔑ろにする様な不道徳な人間に対する祟りか、或いは悪魔付きか何かの症状とは流石に言う者はそういないだろう。だが、それを普段家に引きこもっているものだから体力が低下しているから、だの、精神が軟弱で根性がないからだの、不足しているから、だのと言って看過しようとする輩は意外と現在も数いるかも知れない。そうなると、この現在の迷信家達に必要なのは、時代は二十一世紀になったとしても、矢張り加持祈祷であり、悪魔祓いである。彼らにとって必要なのは、指導ではなくて厄除のお祓いであり悪魔除の呪文であり、幸運のタリスマンであり、そして厄除けの身代わり人形である。 


 そこで例えば、マスクやら帽子というのは具体的で非常に効果的なグッズである事に違いない。取り敢えず彼らはそれを後生大事に信じて身につければ、それで実際救われるのである。大事なのは、融通効かない過程ではなく、何であれ最早兎も角、結果である。掛け声と日々の動作とによる集団・機械化も、この際、結果としてそれで彼らの本来、そう長く続く筈でもなかった繁栄というのが、撓められた形でも継続されるというのであるならば、それでも構わないーー……。

 そんな向きも世の中には屹度あるだろう、という風に夢想すると、汗ばんだ雑魚寝の手枕に飛び付くものの気配があって、思わずやましさから慄いて飛び起きると、何の事はない。餌を探して跳び回る、豆粒大の蜘蛛であった。


 それを自分はうっかり押し潰してしまわないように、と思いながらもう一度頭を横にしたが、如何にも気が漫ろだって、寝付けなかった。

 その内、ひぐらしも喧しく鳴き始めて、愈々気忙しくなって来た辺りで、部屋の灯りを点けた。

 まだ外は十分明るいが、傾いた日差しが色々なものに遮られて部屋には先月の様にもう届かなかった。ただ暑さだけが屋根裏から天井にかけて居座っていた。 


2021/08/01 

17:20