露苔庵

濡れてる訳ではない

迷信家の帽子

 眉毛の白く延びるまで、生きているつもりはない。が、それまでの身の危険は何とかして御免被りたいと願うものだ。 

 予防接種の順番待ちをする間、当日余った分をすぐに打って貰えるように、普段滅多に行かないかかりつけ医にも連絡して、有れば電話して貰えるように頼んでみた。それから後はもう、待つのみである。 

 待たされるのは診療室の常である。だが、院外で待つのはそうあることではない。病床逼迫の折りも折り、「座敷牢」という古い言葉が久々に脳裏を通り過ぎたりした。今夏、時折来る息苦しさは神経性のもので、どうやら熱中症の兆しであるようだった。 


 面倒な会堂や催事もなければ、全ての面会や用事もキャンセルに出来るだけの口実を得たり、とのうのう大の字になって部屋で寝転がっていると、階下の老人が喧しく言ってくるようになった。いい若い者がそんな体たらくでは不甲斐ないとかいう。日毎目に見えて老いの坂道を転げ落ちていく老人の僻みはいよいよ勢烈を示しつつある。

 此方が何か言うにしても都合良く遠くなる耳が片言節句を捉えることもなく、己の劣情も把握出来なくなった膚には玉の汗さえ浮かぶ事なく、剝片と白髪とかがバラバラとへばり付いて仕切りに床を汚している。

 そんな老人の車の中に、散歩帰り、スプレー缶を見つけた。扉を潜る前に急いで運転席のドアに手をかけたら、鍵さえかかっていなかった。殺虫剤の赤いスプレー缶は、今し方注いだばかりの湯呑みくらいに暑くなっていた。そのままでは家の中に入れるにも危なさすぎて、仕方なく納屋の、梯子とかかけてある壁際の物置の上に投げておいた。だがそこも、一応通りには面しており、家の前の道路では子供が日がな一日中、同士で水遊びをしたりして騒ぎまくっていた。 

 余りに不用心なので流石に何かきつく戒めねばならない様な気がしてみた。だが、手を洗っている間にそれも効果がないと気付いた。散歩の間に考えた事であるが、これは自家にも丸っ切り当て嵌まった。恰も、事前にスプレー缶の事を察していたような具合に、である。 


 世間に必要なのは学者や教師ではなく、悪魔祓いと祈祷師である。専ら世間が期待するのは、エクソシストとか、除霊の出来る僧侶や神主の出番であり、反省や批判を促す指導者のそれではない。

 消防署からの回覧板や、防災訓練での指導などは家の老人達も一通り受けているはずだ。そして彼らにしてもまだ、完全に耄碌する事までに至ってない。歳の所為、なぞではなく、単に疲労と軽視から招いた不用心であり、その結果としての危険である。

 学者や知識人は単に道理を説けばいい。だが、エクソシストは実話を示すものである。詰まり、この場合には車内で放置されたスプレー缶が破裂したりしたで齎された重大事故や事件の数々を、危険を招いた本人に教え諭す役を勤める誰かが、この場合いう聖職者である。それによって、聴衆を恐怖させ、改心させるのである。聴きたがらない者には、踏む縛ってでも聞かせる。その為の暴力の行使が許されているのが、学者と教師、牧師の大きな違いだ。飽くまでそれは、話を聞かせる為の下拵えとして振われる。


 ただ、その様な仕事は端から自分の様な俗人のする事ではない。大体、そんな仕事を進んでやろうという気持ちにもならない。怒りは瞬間、十秒と維持されないーーというのは本当である、とタオルで手を拭きながら、台所に向かうと、クーラーもかけないで開け放された窓から、生温い風が吹き込む奥の部屋で老人は午睡の真っ最中であった。わざわざ起こしてまで話を説いて聞かせるべき相手ではないのは一目見て明らかだった。

 況してや、相手は自分をゴロツキと判じて疎んでいるのだから、いつ如何なるタイミングでそれを話題に上げた所で、ゴロツキの舌先三寸に三分の理すらある事を認めやしないだろう。

 第一、自ら、何か話す相手の向こう側に、語る言葉のその奥に、第三者の存在を想定し得る者は、全く信心深いと言って差し支えないだろう。だが、そういった信仰とかは、諄々説かれて気付く事ではない。全く、それは一人でに催す事である。

 聖職者は、さりながら、自らの固い信仰に基づいて厚かましくも他人に第三者の存在を、種々の実話から信じ込ませる所から始めて、認めさせようとする者である。だが、生憎と私にはそんな他人にも紹介したい程、素晴らしいと思われる様な偉大な第三者の存在を想像した事もなければ、あれば良いと望んだ事もない。


 口喧しさは耳に蓋をすれば凌げるものである。だが、暑さ寒さは皮膚全体を覆い、身体全体を悩ます問題である。数年前までは、日がな一日中、図書館なり本屋なりを巡って部屋に居なくても涼を得る手立てがあったが、今そこに行けば有象無象の不用心な人間と多く出会す事になる。それが今、どれだけ危険かは幸いな事にまだ、目に見えては明らかではない。

 伝え聞く話と、そこに出て来る数字などで、目には見えない脅威の存在を認知出来る人間は、賢いか如何か知らないが、少なくとも幸いではあるだろう。それはある種、この時代に適当な信心を持った者達と言えそうなものだ。片や、そうではない人達を、だからと言って、空調を効かせた部屋で過ごせる人間がとやかく言得る立場にもないーーとは、飽くまで信仰のあり方にのみ目を向けてみた時の話である。が、事は最早そんな信じるか、信じないか、という次元をとっくに超えて、「猛暑」といういなみ難い事実として万人の上に立ち込めている。


 その厳然たる事実の見せる景色として、地平線の彼方に列を成して浮上せる入道雲の威容を、今日はよくよく観察出来るだろうと期待して外に出たはいいが、大体一時間も歩いてみると、もう何だか体の自由が効かなくなって来て危険である。先述の息苦しさの他にも、胃の奥から喉元に込み上げて来る酸っぱいものもあれば、度々気の遠くなる感覚や、妙な寒気や手足の震えも感じられる様になって来た。

 これを果たして、身近な人間を蔑ろにする様な不道徳な人間に対する祟りか、或いは悪魔付きか何かの症状とは流石に言う者はそういないだろう。だが、それを普段家に引きこもっているものだから体力が低下しているから、だの、精神が軟弱で根性がないからだの、不足しているから、だのと言って看過しようとする輩は意外と現在も数いるかも知れない。そうなると、この現在の迷信家達に必要なのは、時代は二十一世紀になったとしても、矢張り加持祈祷であり、悪魔祓いである。彼らにとって必要なのは、指導ではなくて厄除のお祓いであり悪魔除の呪文であり、幸運のタリスマンであり、そして厄除けの身代わり人形である。 


 そこで例えば、マスクやら帽子というのは具体的で非常に効果的なグッズである事に違いない。取り敢えず彼らはそれを後生大事に信じて身につければ、それで実際救われるのである。大事なのは、融通効かない過程ではなく、何であれ最早兎も角、結果である。掛け声と日々の動作とによる集団・機械化も、この際、結果としてそれで彼らの本来、そう長く続く筈でもなかった繁栄というのが、撓められた形でも継続されるというのであるならば、それでも構わないーー……。

 そんな向きも世の中には屹度あるだろう、という風に夢想すると、汗ばんだ雑魚寝の手枕に飛び付くものの気配があって、思わずやましさから慄いて飛び起きると、何の事はない。餌を探して跳び回る、豆粒大の蜘蛛であった。


 それを自分はうっかり押し潰してしまわないように、と思いながらもう一度頭を横にしたが、如何にも気が漫ろだって、寝付けなかった。

 その内、ひぐらしも喧しく鳴き始めて、愈々気忙しくなって来た辺りで、部屋の灯りを点けた。

 まだ外は十分明るいが、傾いた日差しが色々なものに遮られて部屋には先月の様にもう届かなかった。ただ暑さだけが屋根裏から天井にかけて居座っていた。 


2021/08/01 

17:20

活字を落としたバラバラの後で

物心ついた頃のことを思い出してみる。

と言っても、物心がついたのはつい2、3日前の事だから、あまりに卑近すぎてよくわからない。

ただ、自分が未だに、今自分が着ている服を着ているものが何なのかよく分からない、という事を考えているーーという事は、散歩する間によく分かった。


頭の悪い文章が好きなのは、趣味である。好きな事が趣味なのであり、嫌いになる事は義務である。そうする必要がないならば、自分はこの頭の輪るい文章を、書き続けたいと思う。勿論、必要がなくなる場合なんてのは、息をしている限り、寸秒もないのであるが。


産道を潜ったばかりの人間には、息をするのにも特殊な方法を余儀なくされる。そう考えると、「波紋使い」とかいうアイデアを最初に思い付いたような人間は、余っ程世渡りが下手だったに違いない。

言葉使いも、実際そんなもんである。常に、特殊な呼吸法を実践し続けるようなもんである。それは、出来る事ならずっと羊水に浸っていた方が良かったような人間の、愚痴というか自嘲である。そういう語り口で語る事しか、“この”呼吸法は許してくれないのだ。


ホムンクルスというのは結局、人間の事である。だから別に驚く事はない。ただ、無数にあるそうした人間のバラエティから、便宜上標準を定めるなら、それ以外のものは何か別の名前が必要になる。その名前を用いる為の呼吸法も自ずと選定される。それは補助言語のようなもので、言語は元来、口の、舌の数だけあるーー筈だ。

二枚舌外交ーーとかそういう次元ではない。


服を着ているものについて話を続けよう。

最近流行りなので『エヴァ』を例えに用いよう。とはいえ、自分は昔からあの物語にはちょっともシンパシーを覚えない。自分の読み方が正しければ、あれはあんまりに自明な事を延々と語り、それに終始していた。或いは自分が全く思いも寄らない事柄について言及していたのかもしれないが、それらを理解する為の「補助言語」が欠落している為、自分は最後までただ絵を、動きを楽しむ作品として鑑賞するより致し方なかった。

(そんな癖して、他のアカウントでは、何やら「表象」だとかいう言葉を使っているんだから、詮もない話だ)


服を着ているものが自分であるとすれば、それは随分と得体の知れないもので、本当のところ、自分はそんな得体の知れないものの表層にぺったり貼り付いた、或いはその中にちょこんと座った、巨大ロボットのパイロットーーこのシチュエーションを「デカルト劇場」とかいうらしいのも、何処だか2ちゃんの掲示板で何年も前に見て知った事だがーーではないか……。

そんな事は巨大ロボットアニメを見ているとかいないとか関係なしに、誰しも、服を着ているものなら一度は考えたであろう事柄だ。

で、最近流行りなので、7年くらい前に雑誌に掲載されていた監督の寄せたコメントというのが随分親切で、それがネットの片隅にも回って来たので読んだならば、思ったよりも自分の妄想とぴたりとハマったのでーーファンサービスだったとしたら、それは大変喜ばしい“投げキッス”だった。


曰く、あれは「ウルトラマンに装甲を施したもの」だという。だったらまあーー実に、実に分かりやすい物語だった。あれは、服を着る理由が訳が分からなくて困惑する赤ん坊の話だったのだ。

使徒」とかいう、得体の知れないものの正体は、「服を着ている何か」だったのだ。これは確かに、脅威である。そして、人類自身もそんな訳の分からないものだったーーというオチも、自分たちが普段それに“服を着せている”、と言うことを考えたら、何でも明らかである。


あの“銀色の巨人”も設定によれば、世を偲ぶ仮の姿、だそうだが、あれはキグルミなので本当のところは未だ、映像としても怖いものではない。

でも、本当に実際、あんなものが目の前に現れてしまったとしたらーーそれはもう恐怖である。“銀色の巨人”が恐ろしいのではない。杳として知れない、“その中に入っているもの”が恐ろしいのである。上手くして、その土手っ腹を抉じ開ける事が出来たとしても、それは何処までもその奥へ、奥へとどんどん引っ込んでいってしまう。

丁度、息の仕方を忘れた時に、何か吐き出そうとしても喉の奥へ、奥へとそれが落っこってしまうように。


自分が普段服を着せているものを、取り敢えず自分と呼ぶ事にして生きていかれるのは、その為の、息の仕方を教えてくれたものがいたからだが、本当のところ、その服の下にいるものの「息の仕方」を、自分とかは知るものではない。だから、自分はそれの「呼吸」を極力乱さないように、慎重に普段から気を遣って服を着ていたのであった。それが失敗すると、どうなるかといえば“風邪をひく”。簡単に言えば、息が出来なくなって、稍もすれば死にかける。だが、その危機を幾たび乗り越えて来れたのは、何もこの、得体の知れない何ものかが自分に憐憫を掛けてくれた為ーーとは全く思われない。

何だったら、全く自分と同じくらいかそれ以上に、こいつは何も分かっちゃいない。


ただ、その“何も分かっちゃお互いいない関係”というのが一番健康だというのは、世間でよく言わている事だ。

それについては、この際、ノーコメントで構わないだろう。


エヴァ』じゃなくて『ゴジラ』の方を見て、更に強く感じた事が、『エヴァ』でも既に言われていた事を知って、後者がやっぱり、“アリス”でいう所の、「ジャバウォッキー」だったのだと分かって少しスッキリして、ホッとした。自信を幾分取り戻したーー、これは、自分の中の秩序が回復された事に因む。

「虚無を纏った」のがゴジラだったのではない。あの中には、人間なんぞ入っちゃいないのだ。人間は、精々いるとしたら表層にケロイド状になってへばりついているだけで、もう如何にもそれでは覆い尽くせない、「ダラダラ」が“ただ動いているだけ”なのだ。


物心ついた時の混乱の中で、取り止めもなく思い付いた事で、今思い出せる事といえばこの程度の事だ。

私はそれでも、これが自分の安全弁である事を妙な話だが、よくよく理解して大切にしようと思った。

マウスピースとも違う。寧ろ、その口にしゃぶられるのがこの「私」である。

それが分かっただけでも、随分と気が楽になった。


(2021/04/12)

活字を落としたバラバラの後で

物心ついた頃のことを思い出してみる。

と言っても、物心がついたのはつい2、3日前の事だから、あまりに卑近すぎてよくわからない。

ただ、自分が未だに、今自分が着ている服を着ているものが何なのかよく分からない、という事を考えているーーという事は、散歩する間によく分かった。


頭の悪い文章が好きなのは、趣味である。好きな事が趣味なのであり、嫌いになる事は義務である。そうする必要がないならば、自分はこの頭の輪るい文章を、書き続けたいと思う。勿論、必要がなくなる場合なんてのは、息をしている限り、寸秒もないのであるが。


産道を潜ったばかりの人間には、息をするのにも特殊な方法を余儀なくされる。そう考えると、「波紋使い」とかいうアイデアを最初に思い付いたような人間は、余っ程世渡りが下手だったに違いない。

言葉使いも、実際そんなもんである。常に、特殊な呼吸法を実践し続けるようなもんである。それは、出来る事ならずっと羊水に浸っていた方が良かったような人間の、愚痴というか自嘲である。そういう語り口で語る事しか、“この”呼吸法は許してくれないのだ。


ホムンクルスというのは結局、人間の事である。だから別に驚く事はない。ただ、無数にあるそうした人間のバラエティから、便宜上標準を定めるなら、それ以外のものは何か別の名前が必要になる。その名前を用いる為の呼吸法も自ずと選定される。それは補助言語のようなもので、言語は元来、口の、舌の数だけあるーー筈だ。

二枚舌外交ーーとかそういう次元ではない。


服を着ているものについて話を続けよう。

最近流行りなので『エヴァ』を例えに用いよう。とはいえ、自分は昔からあの物語にはちょっともシンパシーを覚えない。自分の読み方が正しければ、あれはあんまりに自明な事を延々と語り、それに終始していた。或いは自分が全く思いも寄らない事柄について言及していたのかもしれないが、それらを理解する為の「補助言語」が欠落している為、自分は最後までただ絵を、動きを楽しむ作品として鑑賞するより致し方なかった。

(そんな癖して、他のアカウントでは、何やら「表象」だとかいう言葉を使っているんだから、詮もない話だ)


服を着ているものが自分であるとすれば、それは随分と得体の知れないもので、本当のところ、自分はそんな得体の知れないものの表層にぺったり貼り付いた、或いはその中にちょこんと座った、巨大ロボットのパイロットーーこのシチュエーションを「デカルト劇場」とかいうらしいのも、何処だか2ちゃんの掲示板で何年も前に見て知った事だがーーではないか……。

そんな事は巨大ロボットアニメを見ているとかいないとか関係なしに、誰しも、服を着ているものなら一度は考えたであろう事柄だ。

で、最近流行りなので、7年くらい前に雑誌に掲載されていた監督の寄せたコメントというのが随分親切で、それがネットの片隅にも回って来たので読んだならば、思ったよりも自分の妄想とぴたりとハマったのでーーファンサービスだったとしたら、それは大変喜ばしい“投げキッス”だった。


曰く、あれは「ウルトラマンに装甲を施したもの」だという。だったらまあーー実に、実に分かりやすい物語だった。あれは、服を着る理由が訳が分からなくて困惑する赤ん坊の話だったのだ。

使徒」とかいう、得体の知れないものの正体は、「服を着ている何か」だったのだ。これは確かに、脅威である。そして、人類自身もそんな訳の分からないものだったーーというオチも、自分たちが普段それに“服を着せている”、と言うことを考えたら、何でも明らかである。


あの“銀色の巨人”も設定によれば、世を偲ぶ仮の姿、だそうだが、あれはキグルミなので本当のところは未だ、映像としても怖いものではない。

でも、本当に実際、あんなものが目の前に現れてしまったとしたらーーそれはもう恐怖である。“銀色の巨人”が恐ろしいのではない。杳として知れない、“その中に入っているもの”が恐ろしいのである。上手くして、その土手っ腹を抉じ開ける事が出来たとしても、それは何処までもその奥へ、奥へとどんどん引っ込んでいってしまう。

丁度、息の仕方を忘れた時に、何か吐き出そうとしても喉の奥へ、奥へとそれが落っこってしまうように。


自分が普段服を着せているものを、取り敢えず自分と呼ぶ事にして生きていかれるのは、その為の、息の仕方を教えてくれたものがいたからだが、本当のところ、その服の下にいるものの「息の仕方」を、自分とかは知るものではない。だから、自分はそれの「呼吸」を極力乱さないように、慎重に普段から気を遣って服を着ていたのであった。それが失敗すると、どうなるかといえば“風邪をひく”。簡単に言えば、息が出来なくなって、稍もすれば死にかける。だが、その危機を幾たび乗り越えて来れたのは、何もこの、得体の知れない何ものかが自分に憐憫を掛けてくれた為ーーとは全く思われない。

何だったら、全く自分と同じくらいかそれ以上に、こいつは何も分かっちゃいない。


ただ、その“何も分かっちゃお互いいない関係”というのが一番健康だというのは、世間でよく言わている事だ。

それについては、この際、ノーコメントで構わないだろう。


エヴァ』じゃなくて『ゴジラ』の方を見て、更に強く感じた事が、『エヴァ』でも既に言われていた事を知って、後者がやっぱり、“アリス”でいう所の、「ジャバウォッキー」だったのだと分かって少しスッキリして、ホッとした。自信を幾分取り戻したーー、これは、自分の中の秩序が回復された事に因む。

「虚無を纏った」のがゴジラだったのではない。あの中には、人間なんぞ入っちゃいないのだ。人間は、精々いるとしたら表層にケロイド状になってへばりついているだけで、もう如何にもそれでは覆い尽くせない、「ダラダラ」が“ただ動いているだけ”なのだ。


物心ついた時の混乱の中で、取り止めもなく思い付いた事で、今思い出せる事といえばこの程度の事だ。

私はそれでも、これが自分の安全弁である事を妙な話だが、よくよく理解して大切にしようと思った。

マウスピースとも違う。寧ろ、その口にしゃぶられるのがこの「私」である。

それが分かっただけでも、随分と気が楽になった。


(2021/04/12)

活字を落としたバラバラの後で

物心ついた頃のことを思い出してみる。

と言っても、物心がついたのはつい2、3日前の事だから、あまりに卑近すぎてよくわからない。

ただ、自分が未だに、今自分が着ている服を着ているものが何なのかよく分からない、という事を考えているーーという事は、散歩する間によく分かった。


頭の悪い文章が好きなのは、趣味である。好きな事が趣味なのであり、嫌いになる事は義務である。そうする必要がないならば、自分はこの頭の輪るい文章を、書き続けたいと思う。勿論、必要がなくなる場合なんてのは、息をしている限り、寸秒もないのであるが。


産道を潜ったばかりの人間には、息をするのにも特殊な方法を余儀なくされる。そう考えると、「波紋使い」とかいうアイデアを最初に思い付いたような人間は、余っ程世渡りが下手だったに違いない。

言葉使いも、実際そんなもんである。常に、特殊な呼吸法を実践し続けるようなもんである。それは、出来る事ならずっと羊水に浸っていた方が良かったような人間の、愚痴というか自嘲である。そういう語り口で語る事しか、“この”呼吸法は許してくれないのだ。


ホムンクルスというのは結局、人間の事である。だから別に驚く事はない。ただ、無数にあるそうした人間のバラエティから、便宜上標準を定めるなら、それ以外のものは何か別の名前が必要になる。その名前を用いる為の呼吸法も自ずと選定される。それは補助言語のようなもので、言語は元来、口の、舌の数だけあるーー筈だ。

二枚舌外交ーーとかそういう次元ではない。


服を着ているものについて話を続けよう。

最近流行りなので『エヴァ』を例えに用いよう。とはいえ、自分は昔からあの物語にはちょっともシンパシーを覚えない。自分の読み方が正しければ、あれはあんまりに自明な事を延々と語り、それに終始していた。或いは自分が全く思いも寄らない事柄について言及していたのかもしれないが、それらを理解する為の「補助言語」が欠落している為、自分は最後までただ絵を、動きを楽しむ作品として鑑賞するより致し方なかった。

(そんな癖して、他のアカウントでは、何やら「表象」だとかいう言葉を使っているんだから、詮もない話だ)


服を着ているものが自分であるとすれば、それは随分と得体の知れないもので、本当のところ、自分はそんな得体の知れないものの表層にぺったり貼り付いた、或いはその中にちょこんと座った、巨大ロボットのパイロットーーこのシチュエーションを「デカルト劇場」とかいうらしいのも、何処だか2ちゃんの掲示板で何年も前に見て知った事だがーーではないか……。

そんな事は巨大ロボットアニメを見ているとかいないとか関係なしに、誰しも、服を着ているものなら一度は考えたであろう事柄だ。

で、最近流行りなので、7年くらい前に雑誌に掲載されていた監督の寄せたコメントというのが随分親切で、それがネットの片隅にも回って来たので読んだならば、思ったよりも自分の妄想とぴたりとハマったのでーーファンサービスだったとしたら、それは大変喜ばしい“投げキッス”だった。


曰く、あれは「ウルトラマンに装甲を施したもの」だという。だったらまあーー実に、実に分かりやすい物語だった。あれは、服を着る理由が訳が分からなくて困惑する赤ん坊の話だったのだ。

使徒」とかいう、得体の知れないものの正体は、「服を着ている何か」だったのだ。これは確かに、脅威である。そして、人類自身もそんな訳の分からないものだったーーというオチも、自分たちが普段それに“服を着せている”、と言うことを考えたら、何でも明らかである。


あの“銀色の巨人”も設定によれば、世を偲ぶ仮の姿、だそうだが、あれはキグルミなので本当のところは未だ、映像としても怖いものではない。

でも、本当に実際、あんなものが目の前に現れてしまったとしたらーーそれはもう恐怖である。“銀色の巨人”が恐ろしいのではない。杳として知れない、“その中に入っているもの”が恐ろしいのである。上手くして、その土手っ腹を抉じ開ける事が出来たとしても、それは何処までもその奥へ、奥へとどんどん引っ込んでいってしまう。

丁度、息の仕方を忘れた時に、何か吐き出そうとしても喉の奥へ、奥へとそれが落っこってしまうように。


自分が普段服を着せているものを、取り敢えず自分と呼ぶ事にして生きていかれるのは、その為の、息の仕方を教えてくれたものがいたからだが、本当のところ、その服の下にいるものの「息の仕方」を、自分とかは知るものではない。だから、自分はそれの「呼吸」を極力乱さないように、慎重に普段から気を遣って服を着ていたのであった。それが失敗すると、どうなるかといえば“風邪をひく”。簡単に言えば、息が出来なくなって、稍もすれば死にかける。だが、その危機を幾たび乗り越えて来れたのは、何もこの、得体の知れない何ものかが自分に憐憫を掛けてくれた為ーーとは全く思われない。

何だったら、全く自分と同じくらいかそれ以上に、こいつは何も分かっちゃいない。


ただ、その“何も分かっちゃお互いいない関係”というのが一番健康だというのは、世間でよく言わている事だ。

それについては、この際、ノーコメントで構わないだろう。


エヴァ』じゃなくて『ゴジラ』の方を見て、更に強く感じた事が、『エヴァ』でも既に言われていた事を知って、後者がやっぱり、“アリス”でいう所の、「ジャバウォッキー」だったのだと分かって少しスッキリして、ホッとした。自信を幾分取り戻したーー、これは、自分の中の秩序が回復された事に因む。

「虚無を纏った」のがゴジラだったのではない。あの中には、人間なんぞ入っちゃいないのだ。人間は、精々いるとしたら表層にケロイド状になってへばりついているだけで、もう如何にもそれでは覆い尽くせない、「ダラダラ」が“ただ動いているだけ”なのだ。


物心ついた時の混乱の中で、取り止めもなく思い付いた事で、今思い出せる事といえばこの程度の事だ。

私はそれでも、これが自分の安全弁である事を妙な話だが、よくよく理解して大切にしようと思った。

マウスピースとも違う。寧ろ、その口にしゃぶられるのがこの「私」である。

それが分かっただけでも、随分と気が楽になった。


(2021/04/12)

タケノコ外交の真実

例年4月の中旬から下旬にかけての2週間が、タケノコ外交のシーズンである。

バラ科の桜の花が散り、二尺伸びたる薔薇の芽に雨がしとどに降った後、一日に二尺は平気で伸びるタケノコがそこら中から頭を覗かせるようになると、スーパーと言わず、何処からともなく、行方知れずの砲弾がドカドカと方々から撃ち寄せて来る。

一体、掘らずに放置しておけば、夏にはそれだけ敷地が竹藪に侵食されてしまう。そんな切羽詰まった事情を抱えた家の人からすれば、これらの収穫物は単に旬の食材というだけでは済まないものだろう。

差し詰めパンダの餌にでもしてやろうかと思わず、小憎たらしさすら抱くのではあるまいか。

さても、今朝も着弾した砲弾は、直径15センチ、高さ40センチ弱の見事な円錐形で、今朝掘られたばかりの新芽であった。

タケノコは果たして日毎に巨大化する。それは、巨大化する直前まで地中にあって、見つけ辛い所為もあるからだが、向けば大概可食部は思いの外、少ないものである。

毎年、田舎から大量に貰っていた家では、それこそ「バクバク」としか形容出来ないほどに、タケノコだけを食らっていたという話であるが、その際には時に味付けとかしないで茹でただけのタケノコに、味噌をつけて食べていたという。

その味噌も自家製のものであったと言うから、とにかく美味しいものであった事だろうが、あんまり食べ過ぎて、食後にはアクで口の周りがチクチクしたーーというが、これは散々に駆逐された竹薮最後の抵抗であろう。

蓋し、竹槍は我らが最終兵器かも知れないが、当の竹薮の最終兵器はこのアクに他ならず、刈られてもなお、鍋でグタグタ煮込まれても、最後の最後まで抗戦の構えを見せるーー、その心意気や全く我らも亀鑑とすべき根性ではあるまいか。

地下茎を延々と伸ばし、着々と侵攻の備えに余念なく、時期が来れば一斉に突如として敵陣奥地まで切り込んでいく、その精神は天晴れ勲章ものと言うべく他ない。そんな殊勲なタケノコ兵達を次々と刈っては、その新鮮なる内に賞味せんというのも、防ぐ側の心意気と言うものである。


所で、血気盛んな竹の尖兵達の、天辺から根元まで染み込んだアクを抜く為には米ヌカが不可欠である。

その事情からこのタケノコ外交シーズンになると、送られて来るタケノコに米ヌカがついているか、否かが俄かに評価の焦点となるのである。

曰く、自分家でヌカ漬けを漬けている家では、家にヌカがあって当たり前だと思っているから、添付しないのだーーという説が最もらしく流布しているが、思うにこれは逆である。

自分の家でヌカを漬けている家では、ヌカは当然必需品である。必需品であればこそ、これを勿体無いと思って、何やらタケノコは惜しくないが、それにオマケする、煮ても焼いても食えない数匁の粉が惜しくなるのである。

又、そうでなくとも、タケノコを食らうのに必要な米ヌカは、今シーズンに限っての全家庭に於ける必需品である。そして、何やらそうした「必需品」とされるものをタダで他人にプレゼントするのを嫌だと感じるのがーー蓋し、人情というものである。


そういう訳で、実の所、タケノコ外交の成否は、この、普段なら殆ど価値がないと言っても過言ではない「米ヌカ」の有無によって決まるものなのである。

兎角儀礼的にも程がある季節の挨拶ではあるが、タケノコ外交の特殊性はこの点に尽きている。

「ヌカなんざ何処の家にもあるだろう」と、思っても気持ち多めに小袋に詰められた米ヌカがちゃんと一緒に新聞紙かビニール袋に包まれているか、いないかーーこれが、(本当に重箱の隅を突く悪意と嫌らしさに満ち満ちているものではあるが)ご近所外交における核心なのである。


なお、そんな風にしてきちんとついて来たヌカと一緒に煮込んですらも、取り切れない程、芯までアクどいタケノコを貰ったとしても、文句を言えないのも、タケノコ外交の醍醐味である。

貰う側許りが有利な条件の貰い物では、外交は果たして外交たり得ない。如何にも立派なタケノコであったとしても、剥いてみて、食ってみていたと初めて分かる、美味・悪味が、この時期限定の細やかで、然し貴重な余興なのである。


(2021/04/11)


べに時雨

漸く桜の花が散って、清々したところに紅茶切れ、という思わしくない椿事が出来した。

ボソボソと路肩に降り積もった蕊や赤茶けた花びらを集めて、トースターにでもかければ一服の代用品には勤まるかもしれないが、そこまでして花茶を飲みたいという気分ではない。


桜の花が嫌い、というのは別に何かのイデオロギーと関係ある訳ではなく、ただ単に世間がそれ許り持て囃すのと、やたらとその木許りが目立つのが、何とは無しに鬱陶しく、煙たく感じるーーという話である。

紅茶は近所のスーパーで買うのも良いだろう。が、何とはなしに自分はカルディのジャネットの缶々で済ませたい、という気持ちで今、一杯である。

これが札幌なら、ジュピターで、という事にもなるのかもしれない。要するにそれは、何処でもいい、という訳ではないという事である。殊、嗜好品に関しては、受け取る窓口までがセットでお値段という訳である。


決して何か拘りが茶葉に対してある訳でもない。が、無くて七癖、知って八癖という位だから、他にも分析すればそれだけ数が増えていきそうな気配だ。

雨の中、傘を差してブラブラするのも結構だが、今日は如何にも冷える。仕方なしに、水出し用のピーチフレイバーのローズヒップティーを、久々にポットで抽出してみたら、思ったより酸が強くて、飲んだ後歯がキシキシした。

そして、ウダウダしてる間に五時の時報が鳴った。もういよいよ外に出る気持ちがなくなって来た。

だがなお、用事を思い出してしまった気持ち悪さは、口中の違和感と相俟って肩の辺りに蟠っている。


貞本版エヴァの紅茶のシーンを久々にTwitterで見かけて、「そういえばそんなコマもあったなあ」とか思い出しながら、序でに自分が影響を受けたのは、やっぱりアニメよりも漫画版だった事を思い出したりもした。確か、近所にはUCCのロング缶を売っている自販機なんて無くて、代わりに、スーパーの棚にあった紅茶の四角い缶を買って家で飲んだりしていたものだった。

二十世紀末頃の、ある種のゆとりとかいうものは大体に於いてこうした若者の中で享受された洒落た飲み物に尽きているーーとは、振り返って思われる事である。

岡潔が物不足の時分に、山を越え、谷を越え、遥々大阪に出てコーヒーか紅茶を買って帰った、という話がやたら頭に残っているのは、あながち天才の習慣に対する憧憬よりも、何よりもその嗜好品を重んじる辺りの心性を尊敬するからかも知れない。品質の問題ではなく、喫服する事への、況や生活への配慮に対する敬意である。


雨の中傘を差して向かう先がスーパーであれ、輸入食品の店であれ、自分はそれとは違う、敬意の表し方で以って、数学者に倣う事にした。詰まりは、ごろ寝という選択肢なのであるが、先程からゴロゴロ言ってる腹具合も含めて、今日も養生する事に決めた次第である。


どうせ紅茶を買って来た所で、子供のお使いにもなる訳で無しーー。こう思う辺りで既に敬意も配慮もあったものではなかろうが、思い出す事といえば碌な事もない枕頭に、名前の知らない花の香がノロノロと漂って来た。春も今が盛りである。

べに時雨

漸く桜の花が散って、清々したところに紅茶切れ、という思わしくない椿事が出来した。

ボソボソと路肩に降り積もった蕊や赤茶けた花びらを集めて、トースターにでもかければ一服の代用品には勤まるかもしれないが、そこまでして花茶を飲みたいという気分ではない。


桜の花が嫌い、というのは別に何かのイデオロギーと関係ある訳ではなく、ただ単に世間がそれ許り持て囃すのと、やたらとその木許りが目立つのが、何とは無しに鬱陶しく、煙たく感じるーーという話である。

紅茶は近所のスーパーで買うのも良いだろう。が、何とはなしに自分はカルディのジャネットの缶々で済ませたい、という気持ちで今、一杯である。

これが札幌なら、ジュピターで、という事にもなるのかもしれない。要するにそれは、何処でもいい、という訳ではないという事である。殊、嗜好品に関しては、受け取る窓口までがセットでお値段という訳である。


決して何か拘りが茶葉に対してある訳でもない。が、無くて七癖、知って八癖という位だから、他にも分析すればそれだけ数が増えていきそうな気配だ。

雨の中、傘を差してブラブラするのも結構だが、今日は如何にも冷える。仕方なしに、水出し用のピーチフレイバーのローズヒップティーを、久々にポットで抽出してみたら、思ったより酸が強くて、飲んだ後歯がキシキシした。

そして、ウダウダしてる間に五時の時報が鳴った。もういよいよ外に出る気持ちがなくなって来た。

だがなお、用事を思い出してしまった気持ち悪さは、口中の違和感と相俟って肩の辺りに蟠っている。


貞本版エヴァの紅茶のシーンを久々にTwitterで見かけて、「そういえばそんなコマもあったなあ」とか思い出しながら、序でに自分が影響を受けたのは、やっぱりアニメよりも漫画版だった事を思い出したりもした。確か、近所にはUCCのロング缶を売っている自販機なんて無くて、代わりに、スーパーの棚にあった紅茶の四角い缶を買って家で飲んだりしていたものだった。

二十世紀末頃の、ある種のゆとりとかいうものは大体に於いてこうした若者の中で享受された洒落た飲み物に尽きているーーとは、振り返って思われる事である。

岡潔が物不足の時分に、山を越え、谷を越え、遥々大阪に出てコーヒーか紅茶を買って帰った、という話がやたら頭に残っているのは、あながち天才の習慣に対する憧憬よりも、何よりもその嗜好品を重んじる辺りの心性を尊敬するからかも知れない。品質の問題ではなく、喫服する事への、況や生活への配慮に対する敬意である。


雨の中傘を差して向かう先がスーパーであれ、輸入食品の店であれ、自分はそれとは違う、敬意の表し方で以って、数学者に倣う事にした。詰まりは、ごろ寝という選択肢なのであるが、先程からゴロゴロ言ってる腹具合も含めて、今日も養生する事に決めた次第である。


どうせ紅茶を買って来た所で、子供のお使いにもなる訳で無しーー。こう思う辺りで既に敬意も配慮もあったものではなかろうが、思い出す事といえば碌な事もない枕頭に、名前の知らない花の香がノロノロと漂って来た。春も今が盛りである。