露苔庵

濡れてる訳ではない

べに時雨

漸く桜の花が散って、清々したところに紅茶切れ、という思わしくない椿事が出来した。

ボソボソと路肩に降り積もった蕊や赤茶けた花びらを集めて、トースターにでもかければ一服の代用品には勤まるかもしれないが、そこまでして花茶を飲みたいという気分ではない。


桜の花が嫌い、というのは別に何かのイデオロギーと関係ある訳ではなく、ただ単に世間がそれ許り持て囃すのと、やたらとその木許りが目立つのが、何とは無しに鬱陶しく、煙たく感じるーーという話である。

紅茶は近所のスーパーで買うのも良いだろう。が、何とはなしに自分はカルディのジャネットの缶々で済ませたい、という気持ちで今、一杯である。

これが札幌なら、ジュピターで、という事にもなるのかもしれない。要するにそれは、何処でもいい、という訳ではないという事である。殊、嗜好品に関しては、受け取る窓口までがセットでお値段という訳である。


決して何か拘りが茶葉に対してある訳でもない。が、無くて七癖、知って八癖という位だから、他にも分析すればそれだけ数が増えていきそうな気配だ。

雨の中、傘を差してブラブラするのも結構だが、今日は如何にも冷える。仕方なしに、水出し用のピーチフレイバーのローズヒップティーを、久々にポットで抽出してみたら、思ったより酸が強くて、飲んだ後歯がキシキシした。

そして、ウダウダしてる間に五時の時報が鳴った。もういよいよ外に出る気持ちがなくなって来た。

だがなお、用事を思い出してしまった気持ち悪さは、口中の違和感と相俟って肩の辺りに蟠っている。


貞本版エヴァの紅茶のシーンを久々にTwitterで見かけて、「そういえばそんなコマもあったなあ」とか思い出しながら、序でに自分が影響を受けたのは、やっぱりアニメよりも漫画版だった事を思い出したりもした。確か、近所にはUCCのロング缶を売っている自販機なんて無くて、代わりに、スーパーの棚にあった紅茶の四角い缶を買って家で飲んだりしていたものだった。

二十世紀末頃の、ある種のゆとりとかいうものは大体に於いてこうした若者の中で享受された洒落た飲み物に尽きているーーとは、振り返って思われる事である。

岡潔が物不足の時分に、山を越え、谷を越え、遥々大阪に出てコーヒーか紅茶を買って帰った、という話がやたら頭に残っているのは、あながち天才の習慣に対する憧憬よりも、何よりもその嗜好品を重んじる辺りの心性を尊敬するからかも知れない。品質の問題ではなく、喫服する事への、況や生活への配慮に対する敬意である。


雨の中傘を差して向かう先がスーパーであれ、輸入食品の店であれ、自分はそれとは違う、敬意の表し方で以って、数学者に倣う事にした。詰まりは、ごろ寝という選択肢なのであるが、先程からゴロゴロ言ってる腹具合も含めて、今日も養生する事に決めた次第である。


どうせ紅茶を買って来た所で、子供のお使いにもなる訳で無しーー。こう思う辺りで既に敬意も配慮もあったものではなかろうが、思い出す事といえば碌な事もない枕頭に、名前の知らない花の香がノロノロと漂って来た。春も今が盛りである。